進行・とーまれ!

夫さまは5年生存率30%の「特発性間質性肺炎」。病気とのお付き合いを記録します。

思い出しながら少しずつ⑦(看取り)

まさかこんなに早いなんて、まだ酸素2.5ℓとか3ℓとか。まだまだたくさん酸素増やせるから、まだまだ先だと思っていて。

 

この医師でよかった

訪問診療の医師もいろいろな方がいると思います。わたしはこの医師と出会えて本当に良かった。

最後の見守り方を教えてくれ、今を受け入れる覚悟ができました。声をかけ、ときどき泣くことができました。

亡くなったあと、すぐに僕を呼ばなくていいですよ。家族でゆっくり看取ってから連絡をくださいって。

そのようにさせていただきました。

子どもたちと和気あいあい

夫さまの両親は既に亡くなり、夫さまのたった一人の兄も同じ病気で亡くなっています。同じ難病にかかるなんて、ほんとに仲の良い兄弟です。

自宅の看取りをできたのは親類の目がなかったこともありますよね。

医師が帰ってから、子どもたちと何を話したのか、何を食べたのか全然覚えていないです。夫さまを囲んでなんやかんやと話していました。ただただなごやかでした。

生きているのに、まるでお通夜のような感じ。讃美歌をずっとかけていました。

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Wolfram StrachwitzによるPixabayからの画像

熱があるのに手足はどんどん冷たくなっていきます。この身体と離れていく証拠みたいな感じ。それぞれ個別に何気なく交替で夫さまとの時間を過ごし、皆でとっかえひっかえ手足をさすっていました。

悲しいけど、明るく、家族の一体感がありました。皆で寝れるとき寝よう、食べれるとき食べようと、いろんなものをつまめるようにしていたような気がします。

夜中の看病順番決め

夫さまを夜中に様子を見る順番を決めようと話し合うと、長男はまだまだ逝くのは先と思っているようで、明日出勤する予定、夜は寝ると。

次男は、夫さまが話せなくなる様子を見て、昼間から酒を飲んで紛らわせていました。

もともと危篤で帰省したのではなく、普通に話をするつもりで、話したいことがあって帰ってきていたのです。

前日寝ないでバイクを走らせてきていたので眠くて無理とお断り。受け入れられなかったのではないかと思います。

娘は、きっぱり「わたし見る」って。

わたしは5時に目覚ましをかけ、娘に何かあったら遠慮なく起こしてとお願いし、12時前には寝ました。

なんだか我が家らしい自己中家族です。いつもぶーぶー言われている娘が一番まともでした。そして娘はわたしが寝れるように、こっそり目覚ましを7時に遅らせていたのを後で知りました。

夜中の2時

娘が起こしてくれました。呼吸が止まりかけたと。また落ち着いたので、息子たちは起こさず、様子を見ている間、娘と交代し、ゆっくり夫さまと過ごしました。この時間に私は気持ちを落ち着けることができました。

3時半ごろ、また呼吸の間隔が大きく開き、娘の指示で息子たちを起こしました。

娘のほうが決断力があり親子逆転状況です。バタバタと皆が集まり、小一時間様子を見ていて、またそれぞれが夫さまとの時間を過ごし自室と夫の寝室をいったりきたり。

お見送り

信じられないことですが、ずっと、ものすごい平安がありました。娘はときどき仮眠しながら、ずっと居てくれました。

人ってこういうものなのかと。呼吸がどんどん弱く何度もとまりそうになりまた戻って。

こんなとき病院なら機械のピーピー音ですが、酸素の機械の音だけ。静かで落ち着いています。

いよいよ次男を起こし、長男は約束通り声をかけず。

でも、二人とも眠れなかったって。長男は起きるか迷っていたって。そして、わたしには聞こえなかったけど、亡くなった直後に7時の時計が鳴ったそうです。

皆で泣いて、皆で夫さまを呼んで、ほんとにもう息が戻らないのかを見守って。

こんなふうに逝ってしまうのかって。少しずつ身体からエネルギーがなくなっていくのを感じていたので、逝ってしまったのもわかりました。

家族でベッドを整え、少しきれいめの下着とパジャマにして、と思ったら、なんでも筋肉が緩むらしく、便がまだ出てくるんですね。結局おむつにしました。

そういうものってしりませんでした。生まれてくるときと死ぬときはおむつ。わたしも死ぬときはおむつですね。夫さま、先に逝って教えてくれてありがとう。

息子に夫のひげを剃ってもらい、整ってから医師に連絡しました。

これでよかったのか

本当に自然に亡くなりました。病気が分かったころにはすでに食欲がなく、食生活や呼吸法で治癒力高めたかったけれどうまくいかず。

わたしに言われ長年の頭痛薬を止めました。漢方を服用し確かに効果はあったけれど、ステロイドを使っていたら、抗線維化薬を使っていたら、どうなっていたのでしょう。

急性増悪になっていないのに。こんなに早く。一度KL6の数値が上がったとき、ちょっとした急性増悪ってことだったのかな。

7月の検査数値が下がってきていたのはもう線維化しつくして、下がったなんてことあるのかな?数値下がるってことが末期とか???

5年生存率30パーセントだから少なくても3~4年はいけると思っていて。それがきっかり1年半。動き過ぎる人だから、苦しいけど歳のせいって思っていて診断が遅れたのかな。

夫さまは、治療法これで良かったと言っていたけれど。たぶん私の気持ちを察してでしょう。

親しい友人たちも、この治療法で良かったと思うよ、必要以上の苦しみを与えず最後まで頑張れたのは、希望をもって一緒にやってきたからと言ってくれます。でもどうなのかな。

おつかれさま

1年前の今ごろ、いろいろ憎たらしかったけど、苦しそうな中なんとか一緒にでかけていました。

まだまだ働く気でいました。休もう、退職しようと言っても全然いうこときいてくれなくて。知り合いに、家族にはできるだけのことしたいから、ぎりぎりまで働くって言っていたそうです。

不器用な人、傷病手当まだまだもらえる期間あるのに。余裕でもっとのんびり休める準備できていたのに。

すごい苦しかったのに、ぎりぎりまで自力でトイレに行って、ぎりぎりまでシャワーに入って、ぎりぎりまで皆と話して、ぎりぎりまで漢方のんで、根性でご飯食べて、頑張り続けました。

土曜に来てくれた看護師さんも亡くなったことをびっくりしていました。訪問記録に肺音は「ほとんどきこえない」になっていて。なのに頑張っていて。

トイレに行くとき、杖ついて、スタスタとカニューレの管を振り払い、なかば強引にふてくされたように勢いつけて歩く姿が目に浮かびます。

とにかくほんとにお疲れさまでした。

数日前、だれか会いたい人、話したい人いる? ときいたら「あにき」と言っていました。ほかに挙げた名前もすでに亡くなった人。きっと会っていますね。